2010年5月29日土曜日

28 May.2010

BankART Studio NYK「Spring Open 2010 BankART AIR Program」を観る。

いくつかのパフォーマンスを観たが、要素が多すぎて表現の軸がブレていたものが多々あった。
村田峰紀、くびくくり栲象らのパフォーマンスは出来れば個別に観てみたかった。最初に登場したくびくくり栲象の舞踏のようなソロは、頭から足の先端までの細やかな動作を通じて素晴らしい緊張感が伝わってきた。
木村幸恵の作品は何度も観ているが作家と会うのは初めて。ややぎこちない仕草でゆらめき動く作品と戯れる姿からは、独特の官能美が感じられた。
利部のパフォーマンスは途中までは観ていられたが、飛び入りの闖入者によって台無しになってしまったように思える。大音量の中で無声映画のように自身の作品を動かし、こちらの耳に届かない音を奏でる様子は良かったのだが。

爆音の中、くびくくり栲象がホールの片隅に置かれていた、1つのテーブルと2冊の本からなる作品を触り始めた。きちんと揃えて置かれていた2つのオブジェは彼の手によってまたたく間に角度を変えられ、向きを反転し、新たにもちこまれた椅子の上に鎮座させられ、バチや小石でおさえつけられ、終いにはテーブルまでも動かされて、作品としてあるべき姿に落ち着いた。
そこに至るまでの時間はとても豊かに流れ、変容する他人の作品と彼の立ち振舞いとが小さな空間の中に溶け込み、観る者の意識さえも一体化させる。真の「美術」が生みだされては消える瞬間を集積した極上のパフォーマンスが、わずか2~3人ほどの鑑賞者のために催され、しばしの間魅了されてしまった。

三中信宏「系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに」を読み終える。

2010年5月27日木曜日

23 May.2010

チャールズ・シミック「コーネルの箱」を読み終える。

2010年5月22日土曜日

21 May.2010

平出隆「鳥を探しに」を読み終える。

2010年5月19日水曜日

19 May.2010









コラージュ作品「News week series / 17 May.2010」制作

2010年5月18日火曜日

15 May.2010

SCAI THE BATHHOUSE「アニッシュ・カプーア展」
秋山画廊「遠藤利克 空洞説・2010 AKIYAMA」を観る。

画廊の扉を開けたときに襲ってくる圧倒的な迫力。
タールの臭気が充満する空間の中に、荒々しい表面をした巨大な南瓜のような円筒状の作品が画廊の大きさに合わせて設置されている。
覗くことのできない内部と、たどり着くことのできない奥の空間は闇で閉ざされ、強引すぎるほどの力強さで二重の空虚が産み出される。

前回自分の作ったものは建築だった、とあらためて思い知らされた。

2010年5月11日火曜日

11 May.2010









コラージュ作品「News week series / 10 May.2010」制作

8 May.2010


















大阪万博記念公園を見て歩く。
「リルケ詩集」を読み終える。

万博記念公園はさながら痕跡博物館といった印象。
40年を経た現在も存在感を発揮し続ける太陽の塔と、きっちりと東西南北に合わせて計画された公園内の軸線は、これから後もその効力を失うことはないだろう。
今や誰も足を止めないお祭り広場には、コンクリートの地面を埋め直した跡が数多く見られ、「デメ」と「デク」が動きまわっていたかつての風景を想像させてくれる。

公園内を歩くと、各国のパヴィリオン跡地に置かれた石碑や彫刻に目をとられる。
なかでも、水を抜かれてその機能を失った姿を晒すイサム・ノグチの噴水と、誰も寄りつかない場所に埋め込まれている若林奮の「クロバエの羽」には長いこと見入ってしまった。

7 May.2010

安部公房「箱男」を読み終える。

2010年5月5日水曜日

5 May.2010









コラージュ作品「News week series / 3 May.2010」制作

ダンテ「神曲 煉獄編」を読み終える。

2010年5月4日火曜日

4 May.2010

国立近代美術館「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」を観る。













↑ アトリエ・ワン「まちあわせ」
美術館の入口前に置かれた竹の作品。
ここに辿りついた経緯や、物語性のあるコンセプトなどを除けば多摩美一年生の課題「竹で空間を作る」と大差なく見える。むしろ造形力の点だけでいえば多摩美のほうが上か。













↑ 中村竜治「とうもろこし畑」
展示室に入ってすぐに現れる。細い部材を用いた立体的編み物、または数学模型のような印象。以前の作品と比べても、展示空間に合わせてその規模を変えているだけしか見えず、早く次の展開を見てみたい。作品と合っていない「とうもろこし畑」というタイトルは後付けのように感じる。


















↑ 中山英之「草原の大きな扉」
コンペで話題となった「扉」の1/3の大きさのもの。ヒューマンスケールにまで落ちた扉から特に面白さは感じられず、小さな椅子群にも異質な印象は持てない。これまでに色々な形で紹介されているため、もし1/1で完成したとしても驚きは半減するだろう。


















↑ 鈴木了二「物質思考51 DUBHOUSE」
数点の模型と巨大なモックアップ。これだけの大きさがありながら空間体験をさせてくれない演出がニクい。壁に遮られてかろうじて下のほうが見える絵と、そこに近づくことを許さないガラスの床。視点を限定させる開口部、まったく閉ざされた裏面の細い通路など、展示の内部空間には触れられないながらも十分に建築を想像することができた。













↑ 内藤廣「赤縞」
赤いレーザー光線によって作られた舞台装置。展示室の床にバーコードのように注ぐ赤い線上に身を置くと、映画のワンシーンのように体表を赤い線が走る。この赤縞空間に入ったとき、鑑賞者は光線を映し出すスクリーンとなって「見るもの」から「見られるもの」へと変転し、舞台のもつ臨場感が見事に表現されていた。


















↑ 菊地宏「ある部屋の一日」
今回の展示で最もインスタレーションらしい作品。動作、映像、音などを用いた唯一のもので、一見建築とは切り離されたもののようでありながらも、間接的な表現の集積によって建築らしさが表現されている。第一室には太陽を表して機械的に動く光とそれに照らされる建築的立体物を展示し、その立体を定点観測し続けた映像が第二室のスクリーンに中継される。この第一室と第二室の間にはわずかに隙間があり、第二室での虚像としての映像が光の角度によって暗転したとき、一瞬だけ実体的な光が第一室から漏れ入る。この空間操作はやはり建築的視点からの作品でなければ成しえない。


















↑ 伊東豊雄「うちのうちのうち」
まるで数学の勉強をさせられているかのような作品。近作で用いられようとしている多面体が作り出す空間の幅は狭く、展示されているものもスタディ模型の集積のよう。この多面体の組み合わせはツヴィ・ヘッカーの旧作のようにしか見えないため、あまり目新しさは感じられない。(http://www.zvihecker.com/index_entry.html
Synagogue of Military Academy)













ゴードン・マッタ=クラークの映像が公開されていた。
製作過程を映像で見るのは初めてだったが、石片の飛び散るなかで顔を覆いながら基礎を叩き壊す姿や、仮支柱のジャッキを懸命に回す姿はどの作品よりもインパクトがあった。

3 May.2010

川村記念美術館「ジョゼフ・コーネル×高橋睦郎 箱宇宙を讃えて」を観る。

ジョゼフ・コーネルの箱とコラージュ、高橋睦郎の詩「この世あるいは箱の人」と作品に添えられた一片の詩作、箱の裏側までのぞめ全体の雰囲気を壊すことなく作品と鑑賞者が一対一で対峙できるように計画された会場構成、美しい装丁のカタログ。これら全てが詰まった最上の展覧会だった。

後からわかったことだが、今回の展示デザインはカタログの装丁や過去の高橋作品の装丁もつとめた方が担当しているらしい。前日に訪れた「佐伯祐三記念館」のように関わる人々の空気感を伝えきれない建築家が構成するよりも、それが出来る装丁家のほうがよほど建築家らしく見える。

2 May.2010

「佐伯祐三アトリエ記念館」
国立新美術館「アーティスト・ファイル2010―現代の作家たち」を観る。

四月に開館を迎え、緑豊かで居心地の良い規模の「佐伯祐三記念館」だったが、作家の創作活動の息吹を伝える施設にまでは至っていなかったように思える。建物自体の素材が良いだけに非常に残念。

「アーティスト・ファイル~」の中では福田尚代のセンスと、O JUNの扱う題材と表現の強さが際立っていた。

2010年5月2日日曜日

1 May.2010

gallery21yo-j「青木野枝展」を観る。

高さのある空間の中に軽やかに舞う鋼鉄の線が、見る位置によって一枚のドローイングのように見える。
居合わせた作家としばらく雑談し、活力をもらった。

2010年5月1日土曜日

30 Apr.2010

ダンテ「神曲 地獄編」を読み終える。