gallery21yo-j「池内晶子展」を観る。
G.ガルシア=マルケス「百年の孤独」を読み終える。
2010年6月27日日曜日
2010年6月24日木曜日
2010年6月22日火曜日
2010年6月19日土曜日
18 Jun.2010
AISHO MIURA ARTS「秋山祐徳太子 高貴骨走」
佐藤真「SELF AND OTHERS」を観る。
秋山祐徳太子といえばパフォーマンスのイメージが強かったが、ブリキの仏像などの作品群も見事。
小さいギャラリーながらも贅沢な空間に仕上がっていた。
佐藤真「SELF AND OTHERS」を観る。
秋山祐徳太子といえばパフォーマンスのイメージが強かったが、ブリキの仏像などの作品群も見事。
小さいギャラリーながらも贅沢な空間に仕上がっていた。
2010年6月17日木曜日
2010年6月15日火曜日
2010年6月12日土曜日
2010年6月9日水曜日
2010年6月7日月曜日
2010年6月2日水曜日
2010年5月29日土曜日
28 May.2010
BankART Studio NYK「Spring Open 2010 BankART AIR Program」を観る。
いくつかのパフォーマンスを観たが、要素が多すぎて表現の軸がブレていたものが多々あった。
村田峰紀、くびくくり栲象らのパフォーマンスは出来れば個別に観てみたかった。最初に登場したくびくくり栲象の舞踏のようなソロは、頭から足の先端までの細やかな動作を通じて素晴らしい緊張感が伝わってきた。
木村幸恵の作品は何度も観ているが作家と会うのは初めて。ややぎこちない仕草でゆらめき動く作品と戯れる姿からは、独特の官能美が感じられた。
利部のパフォーマンスは途中までは観ていられたが、飛び入りの闖入者によって台無しになってしまったように思える。大音量の中で無声映画のように自身の作品を動かし、こちらの耳に届かない音を奏でる様子は良かったのだが。
爆音の中、くびくくり栲象がホールの片隅に置かれていた、1つのテーブルと2冊の本からなる作品を触り始めた。きちんと揃えて置かれていた2つのオブジェは彼の手によってまたたく間に角度を変えられ、向きを反転し、新たにもちこまれた椅子の上に鎮座させられ、バチや小石でおさえつけられ、終いにはテーブルまでも動かされて、作品としてあるべき姿に落ち着いた。
そこに至るまでの時間はとても豊かに流れ、変容する他人の作品と彼の立ち振舞いとが小さな空間の中に溶け込み、観る者の意識さえも一体化させる。真の「美術」が生みだされては消える瞬間を集積した極上のパフォーマンスが、わずか2~3人ほどの鑑賞者のために催され、しばしの間魅了されてしまった。
三中信宏「系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに」を読み終える。
いくつかのパフォーマンスを観たが、要素が多すぎて表現の軸がブレていたものが多々あった。
村田峰紀、くびくくり栲象らのパフォーマンスは出来れば個別に観てみたかった。最初に登場したくびくくり栲象の舞踏のようなソロは、頭から足の先端までの細やかな動作を通じて素晴らしい緊張感が伝わってきた。
木村幸恵の作品は何度も観ているが作家と会うのは初めて。ややぎこちない仕草でゆらめき動く作品と戯れる姿からは、独特の官能美が感じられた。
利部のパフォーマンスは途中までは観ていられたが、飛び入りの闖入者によって台無しになってしまったように思える。大音量の中で無声映画のように自身の作品を動かし、こちらの耳に届かない音を奏でる様子は良かったのだが。
爆音の中、くびくくり栲象がホールの片隅に置かれていた、1つのテーブルと2冊の本からなる作品を触り始めた。きちんと揃えて置かれていた2つのオブジェは彼の手によってまたたく間に角度を変えられ、向きを反転し、新たにもちこまれた椅子の上に鎮座させられ、バチや小石でおさえつけられ、終いにはテーブルまでも動かされて、作品としてあるべき姿に落ち着いた。
そこに至るまでの時間はとても豊かに流れ、変容する他人の作品と彼の立ち振舞いとが小さな空間の中に溶け込み、観る者の意識さえも一体化させる。真の「美術」が生みだされては消える瞬間を集積した極上のパフォーマンスが、わずか2~3人ほどの鑑賞者のために催され、しばしの間魅了されてしまった。
三中信宏「系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに」を読み終える。
2010年5月27日木曜日
2010年5月22日土曜日
2010年5月19日水曜日
2010年5月18日火曜日
15 May.2010
SCAI THE BATHHOUSE「アニッシュ・カプーア展」
秋山画廊「遠藤利克 空洞説・2010 AKIYAMA」を観る。
画廊の扉を開けたときに襲ってくる圧倒的な迫力。
タールの臭気が充満する空間の中に、荒々しい表面をした巨大な南瓜のような円筒状の作品が画廊の大きさに合わせて設置されている。
覗くことのできない内部と、たどり着くことのできない奥の空間は闇で閉ざされ、強引すぎるほどの力強さで二重の空虚が産み出される。
前回自分の作ったものは建築だった、とあらためて思い知らされた。
秋山画廊「遠藤利克 空洞説・2010 AKIYAMA」を観る。
画廊の扉を開けたときに襲ってくる圧倒的な迫力。
タールの臭気が充満する空間の中に、荒々しい表面をした巨大な南瓜のような円筒状の作品が画廊の大きさに合わせて設置されている。
覗くことのできない内部と、たどり着くことのできない奥の空間は闇で閉ざされ、強引すぎるほどの力強さで二重の空虚が産み出される。
前回自分の作ったものは建築だった、とあらためて思い知らされた。
2010年5月11日火曜日
8 May.2010
大阪万博記念公園を見て歩く。
「リルケ詩集」を読み終える。
万博記念公園はさながら痕跡博物館といった印象。
40年を経た現在も存在感を発揮し続ける太陽の塔と、きっちりと東西南北に合わせて計画された公園内の軸線は、これから後もその効力を失うことはないだろう。
今や誰も足を止めないお祭り広場には、コンクリートの地面を埋め直した跡が数多く見られ、「デメ」と「デク」が動きまわっていたかつての風景を想像させてくれる。
公園内を歩くと、各国のパヴィリオン跡地に置かれた石碑や彫刻に目をとられる。
なかでも、水を抜かれてその機能を失った姿を晒すイサム・ノグチの噴水と、誰も寄りつかない場所に埋め込まれている若林奮の「クロバエの羽」には長いこと見入ってしまった。
2010年5月5日水曜日
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